早稲田式速記の研究

早稲田式速記の歴史

早稲田式速記は、初期から複数の機関によって指導されており、それぞれに改良されてきたので、名前は同じ「早稲田式」でも各機関ごとに多少違う体系が指導されています。今回は、早稲田大学邦文速記研究会で指導されてきた「早稲田式」を中心に述べていきたいと思います。この記事は、5年ほど前まで発行されていた研究会の機関紙「稲流」を参考にしています。

草創期

昭和3年(1928年)
早稲田大学の附属高校に通っていた畑中茸次氏が「単画記音式早稲田速記法」を考案。
昭和5年(1930年)
早稲田大学一年だった畑中茸次氏が、邦文速記研究会を発足。100人程度入会。(ほとんどが、速記のアルバイトが目当て)この年、さまざまな方式を研究した結果、読み間違いが多かった単画派から、折衷派に移行。頭角を現してきた川口渉氏が、通信教育や専門学校による普及をはじめる。 この後、戦火が激しくなり、研究会の活動は下火に。

再建期

昭和21年(1946年)
再び会員を募集。100人程度集まる。この時期もアルバイト目当てが多かった。
昭和22年(1947年)
このころの研究会の指導体制は、基本を教えるのみ。基本をマスターしたものは、川口氏の速記塾に出向いて指導を受けた。当時の幹事長渡辺氏は、英文速記も修めており、早稲田大学英文速記研究につながることになる。
昭和29年(1954年)
サークルの再建はほぼ完了。大学からの予算を貰いやすいということで、英文速記研究会と邦文速記研究会に分かれて活動することになる。

成長期

昭和30年(1955年)
研究会内で、高度な内容まで指導できる体制を確立。
昭和32年(1957年)
当時の早大総長であった、大浜信泉氏が会長となる。 全日本学生速記連盟が発足する。
昭和33年(1958年)
新入会員が200名(総数ではない)。大所帯となった速記研究会のあり方などが盛んに議論される。
昭和34年(1959年)
新入会員は、300名。新人戦が行われる。参加校は、早大、中大、日女大。早大が優勝。
昭和38年(1963年)
OB会発足。
昭和39年(1964年)
早大が全日本学生速記競技大会で、優勝。 しかし、後日の協議で、採点方法に不平等があったとの指摘があり、大会無効。
昭和40年(1965年)
早大、全国大会で初優勝。早稲田式速記のテレビコマーシャルが行われる。
昭和41年(1966年)
早大、学費値上げストの影響により、全国大会で振るわず、4位転落。
昭和42年(1967年)
通信教育部門の最盛期。
昭和44年(1969年)
早大、全国大会で2位。関大が、3連勝。
昭和51年(1975年)
40周年を記念して、「早稲田速記仲間の歌」が発表される。
昭和53年(1979年)
早大、全国大会で三連覇。
昭和62年(1988年)
早大全国大会で三連覇。以降、現在まで優勝していない。
昭和63年(1989年)
現在、脚本家として活躍している秦 建日子氏が指導部長を勤める。

衰退期(あえて。)

全国の速記部、速記研究会、新聞部速記班など、部員数の減少に悩む。全国大会で優勝するのに足りる条件を満たすレベルの選手を送り出せる学校は、早稲田と関大だけになり、大会の順位付け方法の変更なども行われる。

大会の結果をみるかぎり、早稲田大学は毎年全国大会で2位か3位に入賞しており、速記の指導もそれなりに行われているようである。しかし、機関紙が発行されなくなる、新入部員数も減少するなど、速記の衰退にともなってサークル活動としての速記も衰退しているように感じる。

1960年に発行された「早稲田式速記研究」と、現在のテキストを見比べてみてもほとんどその内容に変わりがない。速記は、その時代の言葉にあわせて常に改良が必要であるといわれているが、現状の(速記研究会の)早稲田式は、技術の継承で手一杯で、速記方式としての発展・改良・時代への対応は、ストップしているといえる。

平成18年(2006年)
研究会OBで脚本家の秦建日子氏が、速記研究会時代の記憶をもとに、小説「sokki!〜人生には役に立たない〜」を発表。部員たちは、現在と当時の変化の少なさに驚いた。現在の速記研究会の、速記への取り組み、合宿、人間関係の雰囲気などが、小説のなかにまるまる描かれているようだった。

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